14
「ありがとうございます・・・とても・・・いいお湯でした・・・」
 濡れた髪にバスタオルを巻きながら、貞子がふわふわとした足取りでバスルームから
でてくる。
 甘い香りの湯気をあげる貞子を見て、木崎は、にっと笑いかけた。
 ちなみに、貞子は、先ほど渡された木崎の白いYシャツをワンピースのように着ている。
 少し大きいようで、袖などはぶかぶかなのだが、それはそれで似合っている。
 無言のままで座布団を示されて、貞子は思わずそこにぺたりと座ってしまった。
「あ・・・・」
 そのまま、頭に巻いていたタオルがするりととかれ、さっきのように、優しい手つきで
丁寧に髪を拭かれていく。タオルを換えてもう一度、ゆっくりと拭かれると、湯上がりの
心地よさとあいまって、貞子は、ぽうっとほうけてしまった。
「はぁ・・・」
「貞子さん、貞子さん・・・」
「・・・あ、はいっ!」
 肩を揺られて、ようやく我に返る貞子。
「ええと、ちょっと確認したいんだけど・・・・」
「はい?」
「呪いって、いつごろ始まるのかな?」
「あ、ええと・・・・」
 貞子は、慌てて、曖昧な記憶をたぐった。
「ええと、ええと・・・特に決まってないんですけど、わかりやすいように、日付がかわっ
て、すぐ、だと思います。」


15
 木崎は、安心したように、一つ頷いた。
「よかった。じゃあ、もう少し、時間はあるね。」
「?」
 表情で疑問符を浮かべる貞子に、こたつの上を示してみせる木崎。
「お鍋、ですか?」
「そう。今晩は、俺の、お通夜になるから。自分でやるのも、悪くはないでしょ?」
 こたつの上にはカセットコンロが置かれ、下ごしらえの済んだ鍋が、湯気を立てていた。
そして、ビールやカクテルの缶を初めとして、ワイン、日本酒、ウィスキーやブランデーの
ビンも、いろいろな種類が取り混ぜて用意されていた。
「つきあってもらえるかな?」
「あの、ええと・・・・」
 まだどこかぽうっとしている貞子は、全く予想もしていなかった事態に、唖然としていると、
目の前のコップに、よく冷えた烏龍茶がつがれてしまった。
「まずはお茶だけど。乾杯しようか。」
「え、あ、はい・・・」
 思わずコップを受け取ってしまって、びりっと指先に走る痛みに、反射的に手を引く。
「っ!!」
 にじんだ涙でゆがんだ視界に、木崎が、慌てて駆け寄る姿が映る。
「ごめん、忘れてた!怪我、してたんだっけ!!」
 ぐっと、一件強引に、だが細心の注意をはらって、手が木崎の胸元に引きつけられる。

16
「あ、あの、大丈夫ですから・・・・幽霊ですし・・・・」
「少し、我慢して!」
 木崎の言葉に続いて、また、指先にちりっとした痛み。ただ、その痛みは優しい冷たさを
伴っていて、それがどんどん全ての指に広まっていく。
「木崎さん?」
「ごめん・・・俺、器用じゃないから・・・っと・・不格好だけど・・・」
 木崎が、自分の、爪の割れた指先に、軟膏のようなどろっとした液体を慎重に塗って、
それから、薄手の包帯を、不器用な手つきでゆっくりと巻いていっている。
「・・・・・・」
「うちの爺ちゃんに教わったんだけどね。アロエの絞り汁。擦り傷や切り傷の特効薬だよ。」
 自分は幽霊なのに。
 もう、何年も、何年も、このままだったのに。
 あなたを、殺しに来たのに。
 反論はいくつもいくつも沸いてきたが、貞子は、細かなガラス細工に触れるのを怖がるよう
に、なぜか躊躇われて、だまって木崎のされるままになっていた。
(この人の、気が済むようにしていよう・・・)
 殺す相手への、偽善だろうか?自分のすり切れた良心へのいいわけだろうか?
 やがて、不格好な治療は済んで、貞子は、そっとコップを持ってみた。
 鈍い痛みがかすかにあるが、むき出しだったときに比べれば、劇的に違う。

17
「木崎さん・・・・」
「じゃ、あらためて、乾杯!」
 まったく上手いタイミングで声をかけられて、貞子は、つい、グラスを掲げてしまった。
凍る直前まで冷やされた烏龍茶のグラスが二つ、涼しい音を立てて、軽く触れあった。

「わ・・・これ、凄く美味しいですよ!」
「気に入ってもらえたらうれしいね。死んだ親父の得意料理だったんだ。」
 暖かな湯気を吹き上げる、熱い鍋は、豚の薄切りを中心に、白菜、大根、ゴボウ、人参、
豆腐、ジャガイモなどを入れ、味噌と醤油、それにショウガと日本酒で味付けをした、いわゆる
ごった煮の鍋だったが、シンプルな味付けと気長に煮込んだ具の味が素朴で、豪華ではないが、
とても贅沢に感じられるものだった。
 鍋のふたを開けた瞬間、貞子の、霊体とは思えないほど正直な胃が素直に反応して、かなり
大きな収縮音を立ててしまい、これも霊体とは思えない正直な顔が真っ赤になっていたのだが、
木崎はまったく知らないふりで、陽気に鍋を取り分けていた。
 鍋を口にした瞬間、貞子は歓喜の声を上げたのだが、よく考えたら、当然ながら、井戸の
底にいてから、食事は初めてだった。
・・・丸く切り取られた空を見上げて、ただ、井戸水だけを口にしていた・・・・
・・・胸を灼く感情にあぶられながら、長い長い間・・・・
・・・憂鬱な、時間が・・・変化のない牢獄が、いつ終わるのかを考えて・・・
 気が遠くなるような長い時間の後、自分に死が訪れることを予感したとき、胸の奥に渦巻いて
いたのは憎悪と、怒りと、そして、ほんの少しの、それでも確実な、安堵だった。

18
 目の前が、また、ゆらゆらと熱い水でゆがんできたのを、貞子はうつむいて隠した。
 木崎は、それに視線を止めたが、また、まったく知らないふりをして、酒瓶を持ち上げた。
「・・・貞子さん、お酒、大丈夫?」
「少しだけなら。」
「何がいい?ビール?日本酒も、ワインもあるけど・・・」
「ビール、下さい。」
 程良く冷やしたエビスビールの栓が抜かれ、金色の液体が、貞子のグラスに満たされる。
うつむいたままの貞子は、グラスに口を付けると、感傷を振り払うように、グラスを思い切り
よくあおった。
 心地いい苦みの液体が、下の奥から喉をこすっていく。一気にグラスの底まで飲み干すと、
満足のため息とともに、貞子は、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「・・・飲ませてもらいますね、木崎さん!」
「いいねぇ・・・呑ろうよ、貞子さん。」

 ビールの空き瓶が少しずつ増え、やがて、ワインと日本酒にかわる。鍋も、炊いてあった
新米のご飯も、焼き鳥や焼いたソーセージも、どんどん消費されていった。
 木崎の、少年から青年時代の話が、快活に滑稽に、身振りを交えて語られて、貞子も、
目的を忘れて笑いを押さえられず、告白相手まで演じた一人二役の、盛大な失恋の再現の
木崎の熱演には、笑いのあまりカーペットに倒れ込んで動けなくなるまで笑ってしまった。

19
 たった二人だけの、奇妙に陽気な通夜は、ゆっくりと、ゆっくりと更けていき・・・
 気がつくと、貞子は、熱い緑茶の湯飲みを手にして、洗い物を片づける木崎の背中を
のんびりと眺めていた。
「さて・・・これで、おしまいっと・・・・」
 食器は軽く温水ですすいで、食器洗い機へ。几帳面に分別したゴミをそれぞれのゴミ箱に
放り込み、流し台全体をざっと洗って、スポンジと洗剤を片づける。
 盛大に散らかっていたこたつの上と流し台を片づけ終えて、木崎がタオルで手を拭きながら、
貞子の隣に座った。
「・・・」
「・・・・」
 自分も、自分のために入れたお茶(ちょっと贅沢して、最高級の静岡玉露だった)を、多少
ふけた動作でゆっくりと楽しむと、貞子に、静かに微笑んだ。
 どこが悲しげで、透き通ったような笑いだった。
 自分の死を理解して、なお、それを受け入れる覚悟のできた人間特有の、透明な笑顔。
「つきあってくれて、ありがとう。いいお通夜だったよ。」 
 びくっ、と体を震わせる貞子。
「・・・そろそろ、時間だね。」
「・・・・・」
 貞子は、何かを認めるのが嫌なように、うつむいたまま細かくふるえだした。
「・・・貞子さん、そろそろ、時間だよ。」

20
 重ねてうながす木崎の声に、押しつぶされるように、ゆっくりと視線をあげる貞子。
その視線の先にある時計は、木崎を、自分の手で殺す時間の到来を、無情に告げていた。
 もう一度、木崎は、達観した微笑を浮かべて、湯飲みに残った玉露を、美味そうに
飲み干して、心底満足そうにため息をついた。
「さあ、時間だね。」
「・・・・・・・・」
 おだやかな、そのくせに恐ろしいほどきっぱりした木崎の声に、いっそう身を縮める貞子。
「・・・・」
「・・・・・・」
 時間が固体化したような、わずかな沈黙。
「・・・・」
「・・・・・・・・・」
 貞子が、こらえきれないように、ばっと顔を跳ね上げた。
「なんでっ!!」
「なんで、こんなことをしたんですか!!」
「なんで、こんなことをしてくれたんですか!!」
「あなたを、殺しにきたのに!」
「貴方を、呪い殺しに、私は来たのに!」
「木崎さんを、殺さなくちゃいけないのに!!」
 最初は小さな叫びだったか、木崎に詰め寄りながら、だんだんその声は大きく、そして湿っていき、
最後は、木崎のシャツの胸を両手で掴みながら、血を吐くような泣き声になっていた。
 木崎が体勢をくずして床に倒れ込む。その上にのしかかるように、更に叫びつづけた。

21
「ひどいじゃないですか・・・・!!」
「ひどいです・・・殺さなくちゃ・・・いけないのに・・・」
「わたし、あなたを、殺さなきゃ、いけないのに・・・・」
 理不尽な文句だとはわかっている。
 相手の命を、無理矢理、奪いに来た。その自分に、相手は、こんなに良くしてくれた。
 そして、その相手に、自分は泣きながら理不尽な文句を付けている・・・・
 木崎の行動は、また、貞子の予測をこえた。
「・・・困らせたね。ごめん。本当に申し訳なかった。」
 本当に困り果てた顔で、木崎を押し倒して、上にのしかかった体勢の貞子の背中を、
とんとんと手のひらで静かに叩いていた。
「木崎さん・・・」
「自分の思いつきで一杯で、貞子さんの気持ちまで、考えが回ってなかった。
 俺って、本当に馬鹿な上に、鈍感で、気が利かないなあ・・・・」
 自分が嫌になったときのようなため息をついて、体勢をそのままに、申し訳なさそうに
言葉を続ける。

22
「ほんとうにさ、ただ、思いついただけなんだ。」
「・・・・?」
「まあ、ふつうの人は、命は、すごく大切なものなわけだ。」
「・・・・・」
「それを、貞子さんは、いろいろな理由で、奪いに来る。」
「・・・・・」
「でも、俺の命は、もう、黙ってても、なくなる。他の人ほど、執着しなくて良い。」
 そこで、照れ笑いをしてみせた。
「いや、本当に、思いつきなんだ。
 一度ぐらい、力づくでもなく、奪い取るんじゃなく・・・・
 歓迎して、笑顔で渡しても、いいんじゃないかって。」
 目をまんまるにして、唖然とする貞子。
「だから、他に人にはできないけど、俺ならできる。
 たくさん、たくさん、たくさんの人から、怒り、悲しみ、恨み・・・そんなもの
を受けながら、命を奪い取らなきゃいけなかった貞子さんを、俺ぐらいは、
(歓迎)してみるのも、良いかと思ったんだ。
 ただ、それだけなんだよ、本当に。」
 貞子が、唇を震わせる。

23
「そんな・・・そんなこと・・・歓迎、だなんて・・・」
「貞子さんだって、呪いなんて、好きでやっているんじゃないだろうし。」
 背中に添えていた手で、洗いたての、貞子の髪を、そっとなでる。
「だから、貞子さんのためじゃなくて、本当に、俺の、思いつきの、わがまま。
 ・・・・あとね。」
 そこで、木崎は、ちょっとだけ、寂しそうに微笑んで見せた。
「わがままって言えば、これも、わがままなんだけど。
 俺、もう、身よりもないし、それほど仲の良い友人も多くないからさ。
 たぶん、このままだと、死んじゃうときも、病室で、一人だけだと思うんだ。」
「・・・?」
 無言のまま、視線でつづきをうながす貞子。
「・・・貞子さんが来てくれれば、少なくとも、(ひとりぼっちで死ぬ)ことは
ないでしょ?看取ってもらえる人がいるのは嬉しいし、それが、若くて綺麗な
女の子だったら、なお良いし。
 とまあ、本当に、わがままの連続。まったく、俺のわがままだったんだよ。」
 もう一度、洗い立ての、さらさらした貞子の髪を撫でて、木崎が笑うと、
貞子は、そっと顔を上げた。
 その顔に、何かの決意が見えたが、木崎には、何の決意かは、よくわからなかった。
 そして、貞子は、穏やかな、本当に穏やかに表情で、ふわりと微笑んで見せた。
「ありがとう、ございます。」
「ん。」

24
「たとえ、木崎さんの思いつきでも、わがままでも。
 わたし、本当に、本当に、嬉しかったです。」
 切れ長の目の縁から、透明な涙が、白い頬を滑り落ちる。
「お風呂、とっても、気持ちよかったです。
 男の人に、髪を洗って貰ったのも、初めてでした。」
 木崎の顔が、真っ赤になる。
 貞子は、泣き笑いの表情のまま、続けた。
「ご飯、本当に、おいしかったです。お酒も、おつまみも。」
「木崎さんのお話も、とっても、とっても、面白かったです。
 あんなに笑ったの、生まれて初めて・・・死んでからも当然、
初めてでした。」
「木崎さんの入れてくれたお茶も・・・ほんとうに、ほんとうに、
みんな、とってもすばらしかったです。」
 木崎は、微笑んで、貞子の頭をくしゃっと撫でた。
「どういたしまして。喜んでもらえたら、俺も嬉しいよ。」
 貞子は、うなずいて、言葉を続けた。
「木崎さんは、私に、殺されたいって、言うんですね?」
 木崎がうなずく。
「その時、私が、そばにいて、看取れば良いんですね。」
 もう一度、木崎がうなずく。
 貞子は、もう一度、決心を顔に浮かべて、約束した。
「わかりました。木崎さん、貴方の「わがまま」へのお礼です。
 私、一生懸命、あなたを、呪いますね。」

                          つづく

トップページに戻る
第三部に続く

inserted by FC2 system